海保眞夫君 ――― その人と業績*
山本(やまもと) 晶(しょう)(東京家政学院大学教授、慶應義塾大学名誉教授)
海保眞夫君は三月三日に緊急入院する前日まで、新著の仕上げに専念していた。
ここ数年、六回もの手術に耐えながら次次と書物を発表していたのだが、四月十二日永眠の前日にも、真砂子夫人に将来計画の数数を披瀝して、最後にはよい芝居の台本をひとつ書き残したい、と述べたという。
海保君は、十八世紀英文学の研究ではこの人あり、と知られていた。いずれ慶應義塾大学藝文学会の『藝文研究』にでも業績一覧が載るであろうが、質量備えた業績に、ひとは改めて感嘆するのではあるまいか。
同君は代代クリスチャンの家の生まれで、信濃町教会の会員だった。穏やかな人柄は争いごとを好まず、唯一争ったのは親しい友人と将棋盤の上でのことだった。
その反面『三田文学』誌上では、英国の高名な学者の書物を批評して、ここはこう言えば済むものを何でこう小難しく言うのか、とたしなめた。ハイブラウな評論で人気の高い文壇の長老をまったく信用しない、と断言したこともある。批評対象の書物をろくに読んでいないから、というのが理由だった。
慶應義塾大学出版会から上梓した、海保君の『文人たちのイギリス十八世紀』を書評に取り上げた学者は、著者のことを、この人は十八世紀英文学の研究者のあいだでは、いささか恐れられている人である、と述べた。研究対象の書物はすべて、英語でもフランス語でも、きちんと読んでいたからである。
かつて『英語青年』が、これまで日本が産み出した最高の英米文学研究は何か、という面白い特集を組んだとき、わたしは海保君が『三色旗』に発表した英仏比較文学に関する論文を、漱石以来の英文学研究が到達した極北である、とまで言って賞揚した。
海保君の門下からは競争の激しい日本英文学会新人賞の受賞者が出ており、同君は研究者としてのみならず、教育者としても立派に任務を果たした、と言えるのである。
謙虚で、物静かな、はにかみやの海保君は教室では学生の顔もろくに見ず、あまり黒板に書くこともなく、窓外に目をやりながら話をしていたようだから、パフォーマンスを重んじるアメリカ式大学教員評価法など、全然当てにならないことが、これでよくわかる。
- 慶應義塾大学教授海保眞夫氏は平成15年4月12日に逝去された。享年64歳。山本晶氏が『三色旗』に追悼文を寄せられた(105頁)。なお原文は縦書き、海保氏の写真付き。転載にあたっては山本氏より許可をいただいた。
初期の十八世紀英文学研究会 岡照雄
十八世紀英文学研究会、日本ジョンソン協会、英国小説同人会。この三つの学会で私はその初期の事務の手伝いをした。今日に至るながいあいだに三つの会の記憶がまじりあい、さまざまの情景がそれぞれどの会に属するものかはっきりしないことが多い。
十八世紀英文学研究会は大阪市立大学の内多毅先生、名古屋大学の加藤龍太郎先生の呼びかけで設立された。両先生とはかなりの年齢差がある次の世代が神戸大学の宮崎芳三さん、名古屋大学の榎本太さん、京都大学の酒井幸三さんあたりで、私はその後輩になり、織田稔、栗山稔、中原章雄さんたちのグループに近い。私は内多先生と同じ大阪市立大学に勤務していたこともあって、この会に参加することになったのである。
内多、加藤両先生の当時のお考えでは、会員が日本英文学会などで研究発表をするとき、我々の研究会で前もって発表し、みなで疑義を出し合い、活発な質問をして支援するための集まりであった。関西、中京地区での個別の会と並んで、関西・中京の合同の研究会を開くために関西の会員がそろって名古屋に赴くこともあった。そのころの名古屋大学キャンパスでは、至るところで校舎の建築、道路の整備の工事が進行していて、折悪しく雨の日に当たると、道路がぬかるんで靴とズボンが泥まみれになった。そこに、竣工して間もない豊田講堂がそびえている、という光景が浮かんでくる。南大路振一氏をお招きして十八世紀ドイツ啓蒙主義の文学についてのお話を聴いたときの場所は京都大学の清風荘の広間で、もとは西園寺公望公爵の別邸だったこの建物の庭園をゆっくりと鑑賞した。
ジョンソン学者のジェイムズ・クリフォード先生が来日されたとき、名古屋の集まりのあとに紀勢本線で名古屋発列車に乗り、紀州南端をまわって勝浦温泉まで私がご案内した。先生ご夫妻、令嬢とその婚約者、先生のご友人、にわたしの六人の一行だったが、ホテルで私は旅行社の添乗員と間違えられ、フロントでの業界用語がおもしろくて、しばらくその役割を演じてみた。クリフォード先生にお話したら、いっそチェックアウトまで芝居をしたら宿泊料の割引があるかも、と言われた。フィールディングの「シャミラ」を編集されたシェリダン・ベイカー先生とは琵琶湖の湖畔にある、東洋紡績の「求是荘」で一泊の研究会を持った。そのときわたしは「シャミラ」について英語で発表をして、内容と表現でいろいろ先生から指導を受けたが、風刺にもいろいろあるが、「シャミラ」は‘gay satire’である、というのが先生の結論だった。この保養所ではさまざまの専門の研究者による会合が開かれていたようで、来訪者名簿をめくっていると、素粒子論グループとか、湯川秀樹先生をはじめ有名な学者のお名前があった。
そのあとベイカー先生は和歌浦の内多毅先生のお宅に一泊されたが、内多先生が和歌山の書道の大家の天石東村先生を招聘され、天石先生のお手本の「百事大吉」の四文字にベイカー先生がチャレンジされた。先生にその意味は、と問われて、私が咄嗟に‘Whatever is, is right’と答えたら、ベイカー先生はなるほど、よく分かったと納得された。私も天石先生から「百事大吉」の色紙をいただき、いまも大事にしている。
会を重ねるうちに、論文集を作る話がまとまり、京都あぽろん社の編集者の竹田さん、北川さんと一緒に編集の相談のため私が名古屋に何度か赴いたのは昭和四十三年である。開通して間もない名神高速道路は車を運転できぬ私には珍しく、往復の車中では左右の景色に熱中していた。
やがて私は京都大学文学部に勤務するようになり、イギリス史の越智武臣先生の研究室と壁ひとつ隔てた部屋を与えられた。適当な機会に越智先生のお話も我々の会でうかがいたいと思っているうちに、大学紛争が始まった。ながいあいだの学生による研究室占拠のあと戻ると、その破壊は無惨で、越智研究室と私のそれとのあいだの壁に直径二十センチの大穴が開けられていた。いったい何のための穴か、と慨嘆しつつ、これでようやく英文学とイギリス史の交流の時代がはじまりますね、と言うしかなかった。まさに同じ時に、私は研究室に保管していた十八世紀研究会の会合を記録したノートを紛失してしまった。これさえ残っていたら、いま我々の会の歴史がもっと正確に復元できるのに、とほんとうに残念、かつ申し訳ないと思う。そのあと私は過激な政治運動の十七世紀に関心を持ちはじめ、十七世紀英文学会で研究発表をしているが、近頃では「長い十八世紀」という考え方もあり、私のルーツである十八世紀英文学研究会とのつながりをこれからも大事にし、ここで研究発表もしたいと願っている。(おわり)
「日本ジョンソン協会」の創設の前後 平善介
「日本ジョンソン協会」のそもそもの始まりがどんなきっかけからだったのか私にはわからない。いまから40年以上もまえのことで、私の記憶にあるのは、コロンビア大学のJames L. Clifford さんが来日され、東北大学文学部で12~3人の英語と英文学の教官が集まってお話を伺ったことと、その翌日だったと思うが、東一番丁のある喫茶店の二階の一室で、鈴木善三氏、樋渡雅弘氏、その他1~2名と私が、それにClifford さんを案内してきてくれた東北学院大学のPhilip Williams さんも加わって、Clifford さんと歓談する機会があったことである。そのとき私が持っていったBiography as an Art : Selected Criticism 1560-1960, edited by James L. Clifford (Oxford Univ. Press, 1962) の見返しには、’For Z. Taira, Sendai, July 10, 1965, with all best wishes, James L. Clifford’ という署名があるので、日付ははっきりしている。その後、Clifford さんからはJohnsonian News Letter が毎号送られてくるようになり、新刊の研究書の紹介や、アメリカやイギリスでの18世紀研究の動向などを伝えてくれていて多くのことを学び知ることができた。なかでもとくに私の興味をひいたのは、コロンビア大学でClifford さんの同僚であったPeter Gay の新著、The Enlightenment: An Interpretation, Vol. I: The Rise of Modern Paganism を紹介した記事で、私はすぐにこの本を手に入れて読んだ。
そのころ、鈴木と樋渡と私の三人は、村岡 勇先生に仰せつけられて、18世紀英文学の研究を目的とする全国規模の学会を作るための準備の仕事にとりかかった。そして1966年5月に上智大学で開催された日本英文学会第38回大会の折に、約10名の先生方にお集まりいただき、「日本ジョンソン協会」設立の趣旨を説明し、ご賛同とご協力をお願いした。学会の名称は「日本ジョンソン協会」とし、18世紀英文学の研究を推し進め、全国の研究者の交流を盛んにすることを目的とする学会であるが、「18世紀英文学」と言っても、かなり幅広く考えて、王政復古期のDryden から1820年代のBlake の没年ごろまでの文学をカバーしたいと考えていることなどを説明した。学会設立の準備を進めてきた前記の三人のなかで私が年長だということで、趣旨説明の役が私に当たったが、偉い先生方を前にして私はすっかり緊張して堅くなってしまい、出席してくださった方がたのお名前も思い出せないし、二、三のご意見を戴いたはずなのに、それもまったく記憶していない。
こんな有様でなんとも心もとない出発であったが、しばらくして海老池俊治先生から研究文献についての問い合わせのお手紙をいただき、こうしたことが学会の発足を促すよい刺激となった。そしてその翌年の春、日本英文学会第39回大会が東北学院大学で行われたときには、会員の控室に当てられたかなり広い教室で、昼食の時間に多くの人々が休んでおられたところで、次年度から開催する「日本ジョンソン協会大会」の予告をすることができたのだが、このときは前川俊一先生が賛成と励ましの言葉を述べて下さり、大変有難いと思った記憶がある。そのときの予告というのは、(1)「日本ジョンソン協会大会」は日本英文学会大会の翌日の月曜日に開催する、(2)大会では特別講演とシンポジウムを行う、というものであった。ここで言う特別講演とは英文学以外の分野――歴史、哲学、社会、政治、宗教、美術などなど――の専門家に依頼するものを考えていた。こうした発想のもとは、そのころ「学際的な」(interdisciplinary)研究ということがよく言われるようになっていて、アメリカ18世紀学会(American Society for Eighteenth-Century Studies)がその頃刊行し始めた学会誌Eighteenth-Century Studies には’An Interdisciplinary Journal’ というサブタイトルが付けられていたことに示唆されたのである。
こうして曲がりなりにも「日本ジョンソン協会」の学会としての活動が始まったが、ここでひと言、会長を置かなかったことに触れておくと、これには確固とした理由があったわけではない。学会の準備を進めてきた私ども三人のあいだで何となく、「会長はいなくてもいいね」、「そうだね」ということで、それ以上話題にはならなかった。これがいままで40年続いてきたのである。
さて、第1回大会が終わって間もなく、『日本ジョンソン協会会報』第1号の編集にとりかかった。巻頭の論説はしかるべき方に書いていただくことにして、大会でのシンポジウムの記録と新刊書の書評は私ども三人が手分けして原稿を作った。シンポジウムの講師と聴衆とのあいだの質疑応答のもようをすこしでも臨場感あふれるものにしたいと考えて、走り書きのメモをもとにしてでっち上げたこともあるし、新刊書の紹介と批評はめいめいが自由に2~3冊の本を選んで匿名で書いた。
ここまでたどり着いたところで、樋渡雅弘氏が千葉大学教育学部に転じ、その一年後には私が北海道大学文学部に移ることになった。その結果、「日本ジョンソン協会」の運営という重荷が、鈴木善三氏ひとりの肩にのしかかることになったが、その苦境を見事に切り抜けて、この学会の発展の基礎を築き上げてくれた。大会の回数を重ねて行くにつれて、岡 照雄さんや榎本 太さん、その他の方がたが支援して下さったことは言うまでもない。大会を開催するようになって間もないころ、私が東京在住のある美術史の先生に特別講演を依頼し、承諾していただいたにもかかわらず、大会まぢかになって突然断りの連絡を受けたとき、私は海保眞夫さんに泣きついて代わりの講師の先生を急遽探していただき、事無きを得たこともあった。
さいごに、「日本ジョンソン協会」の縁で40年のあいだご交誼をいただいた多くの方がたに心からお礼を申し上げたい。
世異なれば則ち事異なり 鈴木善三
夏目漱石が東京帝国大学文科大学に在学中、英文学談話会で「英国詩人の天地山川に対する観念」と題する講演を行ったのは、1893年のことである。漱石はこの談話の中で、Edmund Gosse やLeslie Stephen等を参照しながら、18世紀イギリス詩人の自然観の変遷をPopeからWordsworthに到るまで跡付けている。漱石の論旨は、ヴィクトリア朝の批評家と大同小異であり、巧緻派Popeについては、「天地の霊活なる景物に感触して衷情を吐露したりとは思へず」と述べ、対してWordsworthを「万化と冥合し宇宙を包含して余りあり」と評している。これは後の『文学評論』(1909)にも通底する議論であるが、ここで、その内容を縷説する余裕はない。ただ、例外的にSwiftに共感した漱石は、第五編のPope論の中で、『エロイザの消息』と『弔歌』を取り上げ、Popeが「浪漫的な情緒の発現」を書き得る資質を備えていたにも拘らず、知的要素に重きを置く作品を物したのは、18世紀という散文的「時勢の圧迫」によるものだと断じている。
ところで、漱石の東京帝国大学文科大学の卒業より遅れること四年(1897)、ハーンによって「一万人中の唯一の日本人学生」と、その才能を激賞された上田敏も、同じく英吉利文学科を巣立っている。上田は、『文学評論』において「常識文学」として消極的評価を受けたAddsionを、彼の門弟の一人、矢野峰人は「上田敏先生」の中で「一高時代に、先生が最も愛読尊敬された泰西の文学者が十八世紀の英文人アディソンであ(る)」と記している。
事実、上田は帝国大学に在籍していた1896年、『帝国文学』に「細心精緻の学風」を寄稿し、「而して邦人の英文学といふもの甚しきはポウプを以って詩人ならずといふあり。声調を辨せず、修辞を知らず、又思想の雄健簡勁なるに盲なるを示すものにあらずして何ぞ」と記している。上田は「希臘思想を論ず」や「典雅沈静の美術」を著し、古典古代の文芸を擁護して、その一端を自ら『海潮音』(1905)の訳詩(例えば、「サッフォ」)に実践した。
しかし、上田は1916年7月、43歳の若さで急逝するが、彼の葬儀に参加した漱石自身も、同年12月、漱石の宿痾ともいうべき胃潰瘍で永眠する。これら二人の巨星が英文学界から姿を消した後、日本の18世紀イギリス文学研究がいかなる推移を辿ったかは、寡聞にして知らないが、1933年、石田憲次が『ジョンソン博士とその群』を上梓し、同年、福原麟太郎が『トマス・グレイの書誌的研究』を公にしたことは明記すべきであろう。
漱石は、1907年、東京帝国大学への教授就任を辞退し、朝日新聞社に入社するが、彼が目されていた英文学講座に初の日本人教授として着任した斎藤勇は、1927年、『英文学史』を刊行し、続いてKeats’ View of Poetry(1929)によって、英文学者としての地位を確立する。斎藤の一年先輩で、東北帝国大学法文学部西洋文学第一講座の創設(1924)に関った土居光知の卒業論文が、生涯の研究テーマともなったロマン派詩人の一人‘Life of Shelley’であったことは意義深い。こうした断片的事実から推し量れるのは、明治、大正、昭和の英文学受容期にあって主流をなしていたのは、18世紀イギリス文学でなかったことは首肯せざるを得ない。
話題は転ずるが、1936年5月30、31の両日、宮城県女子専門学校で行われた第八回日本英文学会において、東北大学附属図書館所蔵の一部が展観され、その目録が手許に残っている。これを参照すると、当時の英文学への関心が那辺にあったか、多少明らかとなる。まず、頁を開くと、Exhibition of Books Chiefly of the English Romantic Periodという英文表題が目に付く。以下、この小冊子には、AからGまで7部分に、Keats、Shelley, Blake, Coleridge等の主要作品が並べられている。唯一の例外は、LavaterとErasmus Darwinであるが、これとて、Blakeが版画を施した作品だからである。主催側の土居の関心の反映とも受け取れるが、ここにも18世紀イギリス文学への周縁的位置付けが看取される。
しかし、こうした情況は、必ずしも日本にのみ当て嵌まるものではない。1965年の来日に際して、日本ジョンソン協会設立を促したJames Cliffordは、Barnard CollegeやColumbia大学で、1944年以来長年に亘って18世紀イギリス文学を講じ、1940年には、早くもJohnsonian Newsletterを独力で出版し、当時の英文学界を覆っていたロマン派やヴィクトリア朝的偏見を是正し、かつ、この分野が‘one of the most vital and active fields of literary study’ であることを力説し続けた。Cliffordの衣鉢を継いだDonald GreeneはThe American Society for 18th-Century Studiesを立ち上げ、‘the age of prose and reason’という蔑称に対して、‘the age of exuberance’ という概念によって、この時代を捉え、排発的論争を試みながら、18世紀イギリス文学研究の再評価のために、精力的に活動した。彼の著作集は、2004年、John L. Abbottにより編纂出版されたが、現時点では、‘humanistic’ という批評は免れ得ない。
さらに、1987年、The New 18th Centuryを刊行して、アメリカの学界に登場してきたFelicity NussbaumとLaura Brownは、自らfeminism批評の具現者であり、new historicism 等の新しい知見を導入した。加うるに、Michel FoucaultやJürgen Habermas等による「啓蒙思潮」の再検討は、18世紀イギリス文学研究を18世紀イギリス文化研究へと拡大させていった。
こうした先鋭的なアメリカ18世紀学会の方向に、いささか保守的な姿勢を取っていたThe British Society for 18th-Century Studiesも、近着の機関誌BJECS 29, no.2(2006) を見ると、‘How Queer Was Cowper?’とか、‘The Politics and Poetics of Sodomy in the Age of George III’ といった論考も目立つようになった。
「世異なれば則ち事異なる」(『韓非子』)を引くまでもなく、創立40周年を迎えた日本ジョンソン協会も、時代の変貌とともに、その姿を変えて行かざるを得ないだろうし、研究とは、本来、そうした要請に応えなければならないものである。